小さな図書館のものがたり

旧津幡町立図書館の2005年以前の記録です

「センス・オブ・ワンダーの図書館」と呼ばれていた旧津幡町立図書館。2001-2005年4月30日までの4年間、そこから発信していた日々の記録「ひと言・人・こと」を別サイトで再現。そこでは言い足りなかった記憶の記録が「小さな図書館のものがたり」です。経緯は初回記事にあります。

樸、撲、僕

友人から届くメールや電話の声は嬉しいもの。
しかし、はがきにしろ、手紙にしろ、自筆のたよりはまた格別の感がある。

「楽しみなブログありがとうございます。」と、久しぶりにYさんから
お手紙をいただいた。

 図書館の「センス・オブ・ワンダー」作品の前で記念撮影をしたこと
 「夏の雲は忘れない」を見に行ったこと
 C.W.ニコルさんの「アファンの森」に行ってきたこと
 被災地を支援し続けている友人のこと
 尹東柱の詩のこと

 追伸には、加藤陽子さん!私も推薦したいくらいです!と、
 日本学術会議会員推薦者の任命拒否問題に憤慨していること、、、(私も同感!!)

そして、、、

 奥田牧師の「こころの時代」私も観ました。
 「抱樸」ではなかったでしょうか。
 僕と撲は知っていましたが、「樸」もあるんだと
 漢和辞典を引いてみたので、余計なことですが、

の添え書きに、エッ、7月20日(月)に書いた「二つの番組」を確認すると
何ということ!肝心の漢字が間違っている、、、Yさんに感謝です。
一文字だけど、大きな違い!慌てて訂正しました。


「樸」がキーワードとなって、
NPO法人「ほうぼくー抱樸」の活動、理念を再び訪ねる機会となった。
奥田さんが学生時代に住井すゑさんの文章で「抱樸」に出会ったことも知った。
ネット情報によると、住井さんは「続 地球の一角から」(1990.4.15)の
あとがきに次のように記している。(以下、引用) 


 「抱樸舎」とはどういう意味でしょうか。
  学習会のたびごとに問われます。“抱樸”の原典は「老子」の第19章で、
 老子哲学の根幹とも言うべきでしょうか。
  それだけに“抱樸”の二字を説明するだけでは、到底、その意をつくすことは
 不可能のように思われますが、

   ――(中略)――

   老子(第19章)
   聖を絶ち知を棄つれば、民の利百倍す。
   仁を絶ち義を棄つれば、民孝慈に復る。
   巧を絶ち利を棄つれば、盗賊あることなし。
   此の三者は以て文にして未だ足らずとなす。
   故に属する所あらしめ、素を見し樸を抱き、私を少うし欲を寡らす。
 
   ――(中略)――

  抱樸とは「素を見し樸を抱き」なのです。樸は“アラキ”です。
 アラキとは原木のこと、つまり山から伐り出されたままの原木です。
  ごろんところがされている原木は、一見、不恰好で、何の取柄もなさそうです。
 しかし原木――樸は手の施しようで、人間のすみか――家ともなれば、
 家具ともなります。或いは又精緻な工芸品ともなれば、より高度な芸術品とも
 なります。つまり樸(原木)は、多種多様の可能性を備えているわけです。
  人間もそのように、見かけは何のへんてつもないが、
 内に多種多様の可能性を備えている存在こそ価値があるのではないか?
 こういう意味で「抱樸舎」となりました。
  しかし、考えてみますと、素朴な心を抱きつづけることほど、
 人間にとって至難なわざはないようです。
 “より、豊かに”“より華やかに”それが人生の目標のように思われている世の中
 では、素朴はまるで貧しさそのもののように錯覚されがちですから。
  全く、苦労の多い世界になりました。老子が指摘してくれているように、
 聖知――仁義、巧利というような“文”(カザリ)をすてない限り、
 人間は“樸”を抱くことは出来ますまい。
  でも、もしかしたら昨今の世界の騒乱は、人間を“樸”に立ち遷らせるための、
 宇宙法則的な“運動”かもしれない‥‥などと、のんきな想いをひろげたりも
 しています。                          
 ・・・・・・   ・・・・・・   ・・・・・・   ・・・・・・
    
まさに、今のコロナ騒乱は、この住井さんの言葉を裏付けるかのように思えます。

旧津幡町立図書館の記録「ひと言・人・こと」はこちらです。