小さな図書館のものがたり

旧津幡町立図書館の2005年以前の記録です

「センス・オブ・ワンダーの図書館」と呼ばれていた旧津幡町立図書館。2001-2005年4月30日までの4年間、そこから発信していた日々の記録「ひと言・人・こと」を別サイトで再現。そこでは言い足りなかった記憶の記録が「小さな図書館のものがたり」です。経緯は初回記事にあります。

図書館界の偉大な先覚者「中田邦造」の生涯を想う

ブログを見た友人から《ほっとメール》が届きました。

「私は膝は若いうちから関節炎を何度も起こしていたのですが、10年前に比叡山延暦寺に行ってきて次の日に歩けなくなった経験があります。半月板の損傷と判断されましたが、10年間、なんとか、温存しています。冷やさないようにしています。正座はしない。無理に運動しない。へなちょこの私です。おだいじにしてください。ゆっくり休んでください。”知恵泉”観ました。図書館の力すごいです」

はい、まさしく、若い彼女の言うとおりですねぇ。

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知恵泉~救え!わが町の文化財 40万冊の本と鐘」の感動を共有できたのも嬉しい!!

40万冊もの重要図書を疎開し、貴重な文化財を戦火から守り抜いたのは、当時の日比谷図書館中田邦造
かつて石川県立図書館長だったことはなんと誇らしいことでしょう。

石川県の読書会の礎を築いた方として有名な館長です。
児童図書研究会の発足、貸出文庫、読書学級、青少年文庫の設置など熱心に読書会活動に取り組み、県内各地に読書会が誕生したのでした。

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『読書会とともに 第7号』(石川県読書会連絡協議会 代表:梶井重雄/1997年)は「中田邦造生誕百年特集号」。
《巻頭言》、《中田邦造先生の語録》、《図書館界の偉大な先覚者中田邦造について》で、中田門下生であった梶井先生が詳細に紹介されています。

◇はじめの二年間は石川県主事として、31歳から44歳(1940年)までの13年間は石川県立図書館長として、その炯眼をもって辣腕をふるったのであった。まず、氏は県下に図書館網をひく、全県下に小学校を単位に、小学校長を分館長に、訓導を司書に委嘱するという形をとる。この県下の図書館網を活用して県立図書館の活動が開始される。

◇13年間に、全国的規模とも言える展覧会(幼児図書展覧会、西洋文化移入に関する図書展覧会、本邦地理に関する古書展覧会、万葉展覧会、俳諧古書展覧会…など)を16回行った。

中田邦造を内からゆり動かしたものは、一つには農村民の心の自覚であり、一つには、これから農村をゆり動かして、新しい創造に向かわしめる英知はいかにして養われるかの二点であった。片手に図書を片手に農具をとの氏の口ぐせは、高い理想によって裏打ちされているのであった。

日比谷図書館の重要資料、加賀文庫等の郷土資料を疎開。また予算200万円を獲得して、井上哲次郎博士、、、等、四十数氏の図書群、約30万冊を買いあげ、疎開、戦火より保護した」ことも記述されていたのですが、うかつにも、私はテレビで初めてその意義を知ることになりました。

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長女の中田直美さん、次女の宮川素美さんの「父の思い出」も掲載されています。

◇仕事熱心で帰宅は遅く、夕食は一緒にできない日が多かった、
とてもやさしく穏やかで、「そうかそうか」が口癖だった、
休みの時は庭の木や花々の世話、物識りで、器用で、
左右両手が自在で、自分で何でも修繕するほどだった、
エスペラント語のレコードを持ったり、興味の範囲が広かった。

◇空襲の翌朝、心配だからと電車が止まったのに
自宅から日比谷まで、片道三時間を歩いて往復。
焼け野原の悲惨な光景を見ながら歩いたと言っていた。
京大の頃はボートの選手で体格も良く、健康だった父だったが、、、

「多難な社会変革で、第一線での管理者としても、全て価値観も、意識も、手法もみんな変わった時期でしたし、個人的には定年の時期でもあり、父にとっても、かなり激しい転換期であったようで、がんじょうだった体も終戦前後の心身の苦労も加わってか胃潰瘍になり、結局完治することなくその後胃ガンとなり…」

59歳の若さでこの世を去られたその無念さを想います。
既にコンピューターのデータベースのアイディアに着眼していたという中田邦造氏。
最新システムの新県立図書館を俯瞰し、おおいに愉快がられているやもしれません。

 

 



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