小さな図書館のものがたり

旧津幡町立図書館の2005年以前の記録です

「センス・オブ・ワンダーの図書館」と呼ばれていた旧津幡町立図書館。2001-2005年4月30日までの4年間、そこから発信していた日々の記録「ひと言・人・こと」を別サイトで再現。そこでは言い足りなかった記憶の記録が「小さな図書館のものがたり」です。経緯は初回記事にあります。

ヒマラヤを踏破した最初の日本人~慧海~

昨年の11月、図書館の新刊コーナーでふと手にとったのは
沢木耕太郎さんの新刊『天路の旅人』
ラマ僧に扮して中国大陸の奥深く潜入した西川一三の物語です。

その「主要参考資料」一覧に
チベット旅行記』(上・下 河口慧海)も
紹介されていました。

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古典的名著とは知らなかった
慧海の『チベット旅行記』(2004/白水社 上・下)

5月以来、何度となく借りては返し、また借りて、
巻末の地図を広げ、行程を確認しながら愉しんでいます。

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旅立ちに際し、何か餞別をと申し出る人も大勢いた。
大酒家には禁酒、喫煙の友人には禁煙を餞別に頼んだ。
不殺生の実践をもって餞別とした友もいる。

これらの信実な餞別が「功徳」となって
困難な旅の途上、何度も命を救ってくれたという。

理論上で決めかねる時には、
座禅を組み、無我の観、
「断事観三昧」の指示に従って進みゆく。

チベットの風俗、習慣、女難、盗難、、、
ハラハラ、不思議、の連続だが、
今のところ、私以外に借りる人はなさそうである。

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巻末には、かの深田久弥さんの解説がある。一部紹介すると

「この偉大な人物について、今までに語られることがあまりに少なすぎた。理解するには偉大過ぎたのかもしれない。高く大きな山は、距たるにつれて、その前山の後ろに姿を現してくるように、もの偉大な存在も歳月を経て、ようやく世人の目にうつり始めてきたようである…昭和35年(1960年)日本山岳会が「日本人の記録による大ヒマラヤ展」を開催したとき、最初のヒマラヤ踏破者である河口慧海の遺品を陳列した。彼がインド、ネパール、チベットから持ち帰った仏典や調度や植物標本、日記や書類が会場を圧した。その貴重性と豊富さに目を見張らぬ人はなかった。私もその一人であった…」(1967年6月)

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なんとも嬉しいことに、
堺市博物館平成五年度秋季特別展(堺市博物館/1993年)
河口慧海-仏教の原点を求めた人-』が図書館にあった。


「…明治三〇年~三六年(1897~1903)、単身ヒマラヤを越えて、艱難辛苦の末、日本人として初めて鎖国下のチベットに入国しました。その後も再度チベットにわたり、梵語チベット語の仏典をはじめ、仏像、仏具、標本類など膨大な資料を日本に持ち帰りました。帰国後の慧海はチベット仏教と文化の紹介や研究に努め、また既成仏教の僧籍を返上し、宗派に偏った日本仏教を否定して在家仏教を提唱しました。…」(堺市博物館長 角山榮氏あいさつ文より)

1945年2月4日逝去、享年80歳。
その生涯、業績を広く知ってほしいと開催された特別展。
図録に貼られているバーコード番号をみると、
小さな図書館の頃の寄贈と思われる。

県内の所蔵館は、県立図書館、津幡町立図書館の2館のみ。
どなたからのご寄贈だったか、寺院関係の方からだったか。
記憶が定かでなくて、実に申し訳ないことである。

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☆実は、「慧海」を知ることができたのは、Z氏のブログ。

「雪の中で夜を過ごしたり、氷の川で流されたり、水も食べ物もをなくさまよったりしてながらも、何とか生き永らえたその旅は、壮絶としか言いようがない。チベット入り後はシナ人と偽って旅をし、カイラス山を詣で、ラサに入って一年あまり勉強、医師として名声が高まり法王にも謁見し、多くの書物を手に入れるが、徐々に日本人との疑いが広がってくる中、何とか関所を通過してインドへ逃れ出た、という旅行記である。」

「慧海のチベット旅行記は、日本が新しい時代へ向かう息吹の中で、まさに日本民族のDNAの青春時代だと言えそうな気がして、読後は痛快な気分になったのだった。それにしても、もっと日本人に知って欲しい人物である。NHK大河ドラマなどでがっぷりと取り上げてほしいものだ。」

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☆「ペリリュー島」について知ったのも、Z氏のおかげです。

https://hitokoto2020.hatenablog.com/entry/2022/02/27/210658 
戦争は悲劇です

https://hitokoto2020.hatenablog.com/entry/2022/03/25/231246
『ペリリュー -楽園のゲルニカ-』①~⑪読了

旧津幡町立図書館の記録「ひと言・人・こと」はこちらです。