ふと本棚の奥に眠ったままの一冊を思い出しました。
『宮沢賢治 碑真景』(吉田精美/1993.6/単独舎)
ずいぶん前に古本市で手に入れた本です。
“…宮沢賢治は
銀河宇宙がつかわした
地球の教師である。
四次元のかなたから、
イーハトーブいわて県に赴任してきた、
地球学校の先生である。
野原や林、田園などが教室だった。…”(序文より)
花巻の高校で教鞭をとった著者は退職を機に
長年の想いであった全国に建立されている「賢治の碑」を調査。
《いつ、だれが、どこへ、どのような思い》で建立したか
47基の背景と経過が写真と共に詳細にまとめられ
建立順に掲載されています。
あらためて目を通すと・・・
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第一号は、賢治没後三年の昭和11年11月21日建立。
羅須地人協会跡(花巻市)
揮毫/高村光太郎・建立者/岩手県内有志
碑文には「雨ニモマケズ」の一節「野原ノ松ノ林ノ」以下が選ばれた。
碑石は「無疵で自然の形を保った風のいいものを」と花巻の石工今藤清六が
十五日間も滞在して探し当てたという稲井石(粘板岩)。
磨きに半月、刻みに半月、精魂込めて仕上げた。
ところが、依頼原稿に原文との違いがあって
脱字三ヵ所、誤字一ヵ所が見つかった。
さて、「追刻」は十年を経て昭和21年…
そのいきさつが愉快なり。
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第四号は、昭和30年8月6日、千葉県に。
広島に原爆が投下されてから十年目、
小倉家の墓地内に建立:建立者/小倉豊文
碑面には賢治の「絶筆」の短歌一首
“病のゆゑにもくちんいのちなり
みのりに棄てばうれしからまし”
『絶後の記録―広島原子爆弾の手記―』のこと、
容態が悪化し、意識が混濁している母の様子を記した
お子さんの日記も引用紹介されている。
“…私が賢治さんの写真をお見せすると、「ケンジチャマ」と赤ちゃんのような声でいわれた。私はまたぽろぽろ涙がながれた。お父さんも泣き顔をしておられた。
それから「みんなで青空にゆきましょう」とか「花巻にはやくゆきたいわね」とか「ポランの広場はわかったの」とか「はやく銀河鉄道にのりましょうよ」だの
いろいろのことをいわれた。…”
碑は、賢治を崇拝しその作品を愛した夫人への供養であった。
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小倉氏のことも、原爆の手記のことも、
この本で目にしていたはずなのに
気づくことなく素通りしていました。
いい加減な自分にがっかりです。
こんなことが他にも山ほどありそうです。
こうしてようやく出逢った
『宮沢賢治 「雨ニモマケズ手帳」研究』
(小倉豊文/1996.5.25/筑摩書房)
読んでみようと思いました。