小さな図書館のものがたり

旧津幡町立図書館の2005年以前の記録です

「センス・オブ・ワンダーの図書館」と呼ばれていた旧津幡町立図書館。2001-2005年4月30日までの4年間、そこから発信していた日々の記録「ひと言・人・こと」を別サイトで再現。そこでは言い足りなかった記憶の記録が「小さな図書館のものがたり」です。経緯は初回記事にあります。

「越中八尾 おわら風の盆」に魅せられて

「おわら」踊りには、三通りあるそうで

・豊年踊り
・男踊り
・女踊り(四季の踊り)

 

私が「おわら」ファンになったのは、四十年ほど前。
とある親睦会で、編み笠を目深にかぶり
当時の北陸銀行支店長のⅯさんがさっそうと登場。
きりりと美しい、「男踊り」のかっこよさに、
すっかり魅せられたのがきっかけです。

~~いつか「風の盆」を訪ねたい~~


ひそかな願いがようやくかなったのは五年前。
臨時に設けられた大駐車場から
ピストン輸送のバスに乗り換えて
八尾の街に一歩入ると、もうあちこちから、
三味線、胡弓の哀調の音色が響いてきます。
唄も味わい深い、歌詞もいい、、、

蛍とたわむれる女踊り、田畑を耕す男踊り。

半信半疑だった夫も情緒あふれる「風の盆」に魅了され、
その翌年は友人たちをも誘って出かけたのですが
残念ながら、その後はコロナで中止でした。

***

歌詞は「七、七、七、五」。
古くは江戸時代からのもあり、
代表的な《八尾四季》は
八尾の春夏秋冬をうたったもの。

「揺らぐ吊り橋
手に手を取りて
渡る井田川
オワラ 春の風

富山あたりか
あのともしびは
飛んでいきたや
オワラ 灯とり虫

・・・・・・」(作詞:小杉放庵)

***

昭和30年頃までは養蚕で栄えた町。
女たちの仕事の中から生まれた糸繰り唄との説もあり

最後の五文字の前に「オワラ」と入れて
ふるさとの自然や暮らし、さまざまな想いを詠んで
今では5000首を超えるとか。


「雪の立山
遠くに霞む
八尾坂道
オワラ 春の水」
 

「流すおわらに
糸繰る母を
思い出させる
オワラ 盆の月」


「山の畠で
二人でまいた
そばも花咲く
オワラ 風の盆」


「唄の街だよ
八尾の町は
唄で糸とる
オワラ 桑も摘む」

 

(昭和7年には歌い継がれてきた歌詞をまとめた『おわら万葉集』が編まれました)

***

毎年、9月1日~3日に実施される「おわら風の盆

《おわらに欠かせない役割を担っているのが唄と楽器で奏でる「地方」です。地方は「唄い手」「囃子」「三味線」「太鼓」「胡弓」をいいます。三味線が出を弾き、胡弓が追います。太鼓が軽く叩かれ調子を上げると囃子が唄を誘います。唄は甲高い声で唄い出し息継ぎなしに詞の小節をうねらせ、唄は楽器に応え、楽器は唄に応えます。》(越中八尾観光協会HPより)

楽器のなかでも、おわらに最も欠かせない三味線。
その三味線の第一人者、町にとって宝もの、
とまで慕われた杉崎茂信さんが
この7月に亡くなられたと知りました。


NHK『新日本風土記』には
その杉崎さん(84歳)の映像がありました。
9年前の「風の盆」。

―この「おわら」ちゃあ、ありがたいもんでねぇ
わしらの息しとるのとやや近い
三味線ひく回数と心臓の回数はやや似とる
だから歩くひともつかれん
踊るひとも朝までやっとるの

…いいところに生まれたもんだね
ここまで生きてきて…
まるで「おわら」のおかげだ―

ただ今、筋肉痛です

20日~21日、和倉温泉運動公園テニスコートで開催された「第21回北信越シニアテニスオープン大会」に参加しました。男性23ペア、女性54ペア、地元石川県を中心に、遠くは福岡県、宮城県…全国から150人を超えるテニス愛好者が集いました。

***

どっさりの洗濯物をたたみながら、
夫婦参加は3組ほどだったと、ふっと気づきました。

夫は治療中の踵が痛そうだし、
私は両脚がひどい筋肉痛。

それでも、こんな年になってもそろって参加できて
あれはこうだった、ああだった、すばらしかった~と
思い出を共有できるのはなんて幸せなことかと思います。

***

私は久しぶりの試合でした。
練習不足に加え、膝の調子も万全とはいえず、
3試合目の途中から脚がピクピクし始めました。
即効漢方薬の「ツムラ68」にすがりましたが
4つ目の試合はさんざんでした。


パートナーのK子さんは私をフォローして大変な上に
その夜の宴会では大役が待ち受けていました。

途中で脚がつりませんようにと祈りながら
涼しげな単衣に身を包み、編み笠を深くかぶって
越中八尾の「おわら」踊りをしっとり披露しました。

NHKでライブ中継された「風の盆」がよみがえりました。

***

県シニアテニス連盟の方たちが念入りに準備してくださって
テニスも宴会も温泉も、存分にたのしんだ二日間でした。

~澤地久枝さん~『発信する声』より(鶴彬の命日に)

澤地さんによれば、「斃死」、と呼ぶべき無念の死をとげた鶴彬。
命日の今日、かほく市の浄専寺さんでは第6回墓前法要が行われ、
歴史公園では、第25回鶴彬をたたえる集いが開かれるという。

今、手にしているのは澤地さんの『発信する声』(かもがわ出版/2007)。
15年前、かほく市での「鶴彬の記念講演会」で求めたサイン入りの一冊です。


・・・・・

「…さまざまな悪戦苦闘ののち、鶴彬の没後満六十年の命日の日付で、復刻本は完成した。私家版の限定五百部。


  暁を抱いて闇にゐる蕾


彼の句の「闇」を意味する深いグレー、見返しは「暁」の色のくれないをえらんだ。復刻した人間が女であるという思いをひそませた装幀である。鶴彬の軍服姿と遺品をうつした写真は口絵にせず、カバーに白黒の印刷でおさめることにした。多くの未発表さくひんをくわえ、増補改訂の結果、二段組み496ページの本にまとまった。若干の誤植はあり、不備なところはあるが、気持ちのこもった美しいほんになったとあえて言いたい。一叩人氏にずっしり重い見本を手渡したとき、わたしの仕事は終幕をむかえた。いまは申し込みを受けて発送するうれしい忙しさに追われている。…」

・・・・・

あー!ミスに気づきました。
前回のブログで、奥付までの4ページをうっかり見逃しました。


~☆~☆~☆~

2004年6月に発足した「九条の会」の呼びかけ人のお一人、
澤地さんは「正直な気持ちをこの一冊に吐露した」とありました。

年月がたち、私は視力がかなり衰えはじめているのですが、
その分、あの頃よりもっと丁寧に、一文字一文字を追う自分がいます。


2006年7月に長野市で開かれた第52回日本母親大会での記念講演の草稿、
9月の第8回日本民医連看護介護活動研究交流集会での記念講演記録、
11月3日、神戸市で開催された「兵庫県・はばたけ!九条の心」の講演記録は
会場のみなさんの熱い想いも伝わってきます。

黙っていればどこまで医療のお金、福祉のお金、文化に対するお金を削って、軍事費や米軍基地費用に回すかわかりません。
新聞に報じられないことは、起きなかったのと同じこと…日本中に平和を守ろうという必死な動きを何も報じないのは「マスコミの犯罪行為」と、澤地さんは断じます。


~☆~☆~☆~


「戦争がもたらす死と、生命の損壊は、今も終わっていない。辛いニュースがあいつぐ。枯葉剤ダイオキシン劣化ウラン弾、時限なし無数の地雷となるクラスター爆弾。世代をこえるその犠牲者たち。殺し合いの技術は高度化し、一部の人々を富ませ、被害者の惨状を無視して、さらに「進歩」をめざす。国の意志の裏には、資本の利益追求があることを考えたい。

 

一人の力は強くはなく、一人の声はささやかかも知れない。そのささやかな思いを互いに発信しあい、市民の新しい歴史をつくり出してゆく明日に、私は希望をつなぐ。

 

声高にはなるまい。悠々として笑顔で、しかし己が志はかたく守ってゆきたい。悲壮になる必要などない。私は何ごとにもあきらめず、思いは成就させ、ゆとりも遊びも斥けないで存分に生きてゆくつもり。

 

まだ好奇心はたっぷりあるし、多分、感性も涸れきってはいない。怒りのエネルギーも十分にある。」~《あとがき》より


~☆~☆~☆~

「戦争からよきことはなにも生まれない。
戦争に勝者はない、どちらの側の人びとも、
長い年月にわたって代償を支払うのだ、、、」

ウクライナの惨状、悲劇を目の当たりにし、
澤地さんの言葉が実感となってひしひしと伝わってきます。

~澤地久枝さん~「ミッドウェー海戦」の記録

澤地久枝さんのお姿を見るのは久しぶりでした。

まったく偶然に、NHK朝のニュース《おはよう日本》で8分間。
そして、もう一つはNHKの一時間番組
《“異形の死”と向き合い続けて~ミッドウェー海戦 3418人の命を悼む》


***

10代のひとたちが戦争をどう考えているか聞きたいと
5人の高校生たちをご自宅に招いて

戦争中、自分がほんとうにばかな女の子だったということは忘れられない。
私はいま振りかえると何もわかっていなかったと思う。
戦争というものがよくわからないし、知らないし、、、
後悔の念を口にして、階段を下りて
これまで集めてきた膨大な資料が保管されている地下の倉庫に案内する。


その中には、ミッドウェー海戦の戦死者の遺族に送ったアンケートファイルがある。
40年前、前例のない調査をおこなって
ファイルにまとめて今も大切に残していらっしゃる。
生前のくらしや人柄などを聞きとった一人ひとりの人生の記録。

目を凝らして見ていると、
一時間番組に登場した「三上良孝」さんのお名前もあった。

ある高校生の曽祖父は「回天」の作戦に従事して戦死したという。
遺骨や遺品は戻らず、亡くなった日時や経緯も分からず遠い存在だった。
今年復刊した『記録 ミッドウェー海戦』の文庫本を手にして、
異形の死を迎えた若いいのち、遺された遺族の気もちをはじめて知ったという。

***

「私はね、やっぱり
みんなが黙ってしまったら
その瞬間に
戦争の助走が始まると思うの。。。

私は戦争反対って言ってるけど
戦争というものがどういうものか
あまりに知られていない

実際に経験した人には
私たちが想像もできなかったようなことがあるのね
だから
本当は聞いた方がいいのね。。。

あなたたちの意見は?
どうしたらいいと思う?」

澤地さんは若いひとたちに、語り、問いかける。

***

澤地さんは92歳(この9月3日で93歳です)
背中が曲がり、杖をつき、独り歩みゆく後ろ姿が
たまらなくかっこよくて気高くて
澤地さ~んとあとを追いたいきもちになりました。


~・~・~・~・~

『記録 ミッドウェー海戦』(澤地久枝/ちくま学芸文庫/2023.6.12)
太平洋戦争の転換点となったミッドウェー海戦。日本側3056名、アメリカ側362名の戦死者の生年、所属階級、家族構成などを突き止め、手紙やインタビュー等を通じて戦死者とその家族の声を拾い上げた記録。

(さっそく図書館にリクエストしました)

鶴彬~一叩人~澤地久枝さんへとバトンは渡されて

鶴彬のこと、澤地久枝さんのこと、どうしても伝えたくて、
今日、の書き出しが、昨日、一昨日、になり…
とうとう四日たって、ようやくの報告です。

***

9月3日(日)、隣町のかほく市高松町で開催された佐高信さんの講演を聴きました。
会場の高松産業文化センター大ホールは、二百人を超えるという聴衆、県内各地、県外から参加された方もいらっしゃるとか。ぐるり見渡すともう若くはない方たちがほとんどかな~。でも、その熱気は驚くばかりでした。

 

「鶴彬/つるあきら」、本名・喜多一二(きた かつじ/1909~1938))
お隣のかほく市高松町に生まれ、短い生涯を終えた川柳作家。
「没後85年」の記念講演でした。

 

演題は《時代を撃つ川柳人 鶴彬》

 

講演会レジュメは作らないのですが、今回はお世話くださる方々に敬意を表して、
めったにないことですが、と佐高さんは会場を沸かせました。
(参加されなかった方の参考に~こんなレジュメです)

1 差別、蔑称から逃げない...「川柳やのくせに」とか裏日本
2 上御一人 剣花坊や司馬遼太郎との違い
3 鶴ファンの大道寺将司
4 川上三太郎の戦争責任
5 軍隊での抵抗
6 軍隊は国民を守らない
7 蟻食いを嚙み殺したまま死んだ蟻

レジュメからはみだして、当然ながら時事問題、政界のウラ話、与党、準与党議員らが面白おかしく登場します。が、対する人物像として、久野収松下竜一、松元ヒロ、城山三郎松村謙三藤沢周平、、、さんたち。

人権と特権、天皇制国家のこと、文春でも尻込みするいう“司馬遼太郎タブー”に踏み込んでの興味深いお話もありました。


***

この3月に出版された『反戦川柳人 鶴彬の獄死』(佐高信/集英社新書)は既に3刷りとか。

「〈万歳とあげて行った手を大陸において来た〉〈手と足をもいだ丸太にしてかへし〉。昭和初期、軍国主義に走る政府を批判する激烈な川柳を発表し、官憲に捕らえられて獄死した川柳人・鶴彬、享年29。「川柳界の小林多喜二」と称される鶴彬とは。再び戦争の空気が漂い始めた今の日本に、反骨の評論家・佐高信が、突きつける!」(カバーの紹介文より)

前々回の古典の読書会で紹介され、順に回し読みしている本です。

***

これまでに幾冊もの「鶴彬」が出版されています。

田辺聖子著『川柳でんでん太鼓
坂本幸四郎著『雪と炎のうた-田中五呂八と鶴彬』
半藤一利著「あの戦争と日本人』
深井一郎著『反戦 川柳作家 鶴彬』… … …etc.

年三回のペースで発行されている『鶴彬通信~はばたき』(顕彰する会)は、第43号を数えます。みなさんの力で、絵本『石川県の生んだ偉大な川柳作家~鶴彬の生涯』(文・絵/寺内徹乗/2017)や、生誕百年の記念映画「鶴彬 こころの軌跡」(監督/神山征二郎)も生まれ、金沢市民芸術村で演劇「手と足をもいだ丸太にしてかへし―鶴彬の生涯―」も上演されました。


会のみなさんの長年のご苦労を思います。
細川律子さんも長らく幹事をつとめていらっしゃいました。

***

1997年だったか、翌年だったか~、小さな図書館が開館して一、二年(記憶がおぼろげです。当時の手帳を探しているところです)高松町立図書館の架谷館長さんから、澤地久枝さんが急にこちらに見えることになったのでぜひ話を聴きにきてほしいとの電話がありました。詳しい事情はよくわかりませんでしたが、よろこんで駆けつけました。

図書館の一室、そう多くはない人数だったように思います。
初めて知る、鶴彬と一叩人(いっこうじん)。
全集復刻への澤地さんの熱い想い、強い決意を感じた日でした。


その後、1998年、鶴彬の命日の9月14日に、限定500部の(増補改訂復刻版)『鶴彬全集』(著者/鶴彬、編者/一叩人、復刻責任者/澤地久枝)が発行されました。一叩人編『鶴彬全集』(1977年9月14日・たいまつ社刊・絶版)を原本とする492ページに及ぶ労作です。(1/500冊が津幡の図書館にもあります)

澤地さんによって再版されて半年後の4月9日、一叩人は87歳で世を去りました。
終わりの~《復刻にあたって》~で、澤地さんは以下のように書いていらっしゃいます。


「鶴彬の生きた時間は短く、自由に文学活動のできた時間はもっと短い。そして時間だけが問題なのではなく、思うままに作品を発表できる時代ではなかった。彼はその生前、みずから一冊の句集もまとめる機会のないまま死んだ。作品をのこす権利を奪われた人生といってもいい。

評論は一編の生原稿さえ残っていない。特高警察の押収と処分のほか、所持していた人たちによる焼却がおこなわれている。それは、彼の仕事が完全な形であとにのこされることを不可能にした。

わたしは鶴彬から一叩人が受け継いだ意志と情熱とを、つぎなる受け手にひきつぐ中つぎ役であると思っている。今回の復刻出版は遅すぎたほどであり、しかもなお完本とは言い切れない。だが、これが現在、わたしにできたぎりぎりの到達点であることをわたしはよく知っている。」

そして、

「答えのない長い時間、すべてをゆだねて黙って見守ってくれた一叩人その人への感謝。盛岡市の喜多孝雄のご遺族。鶴彬の二人の妹さん。 
郷里石川県高松町から示された好意。喜多喜太郎の孫や縁続きのひとたち、鶴彬の級友、知人、町立図書館長架谷俊治氏など多くの人たちの好意にささえられてここまで来た。一叩人から渡されたバトンをつぎなるにない手に渡すべく、この五百冊が役立つことを祈りたい。…」と。


***

・静な夜口笛の消え去る淋しさ

・燐寸(マッチ)の棒の燃焼にも似た生命(いのち)

・皺に宿る淋しい影よ母よ


大正13年10月25日『北国柳壇』に「喜多 一児」の名で初登場した鶴彬。

わずか15歳の句です。

(ありがたいことに、復刻版を底本にして全川柳が青空文庫に掲載されています)

戦後78年~平和の俳句&『こんにちは 八名信夫です』

昨夜はスーパームーン、雲間から現れるお月さまを眺めました。
今日の朝ドラ『らんまん』でも大きな月を見上げる場面がありましたね。
今週のサブタイトルは、「オーギョーチ(愛玉子)」。
台湾での呼び方から名づけられたという学名だそうですが、

「学名として永久にとどめるがです…ささいなもんが踏みにじられ…人間の欲に踏みにじられる前に…植物学者として守りたい…植物学に尽くす!ただそれだけ…」

万太郎の言葉がずしんと響きました。
琉球アイヌ、、、そして朝鮮。
日本が朝鮮を支配していた1940年代、消えゆく運命にあった朝鮮語を守ろうと
命がけで辞書を作ろうとした人々の物語、悲しい詩人の生涯。

『マルモイ ことばあつめ』
https://hitokoto2020.hatenablog.com/entry/2020/09/18/103751 

空と風と星の詩人~尹東柱
https://hitokoto2020.hatenablog.com/entry/2020/09/20/114500

関東大震災での虐殺のこと、そして最近になって知った福田村事件。

***

今日からもう9月。かなり日が過ぎましたが、8月15日の中日新聞の特集記事(18、17面)のこと、書き記しておこうと思います。

★第18面【平和の俳句 特集】

戦後70年にあたる2015年から始まった俳句募集企画です。
金子兜太さん、いとうせいこうさんが選者をつとめられ、金子さんの志は黒田杏子さん、そして黒田さんを師と仰がれる夏井いつきさんへと受け継がれ、今年は昨年を524句上回る6,746句が寄せられたそうです。(私も今年こそは一句ときもちばかり奮い立っていましたが…)
選ばれた作品は、8月15日から昨日までの第一面に、一句ずつ掲載されました。

・・・

8/29   スタンディング青葉も手振る町の辻(小幡由美子/66)

いとうせいこう〉平和行進に参加し、街に立つことで不服従を示すことを体験した六十代女性のとても、柔らかな表現。広げたいデモ。

8/30  切る結ぶ描く蒔く祈る手のかたち (竹田 郁子/ 59)

〈夏井いつき〉人は、様々に手を使いながら生活をしています。それぞれにある手のかたち。種を蒔き、平和を祈るのもまた同じ手です。

8/31  ボクたちは順に起きて寝る地球の子(岩津 明弘/49)

いとうせいこう〉ここが朝なら、あそこは昼、そして向こうは夜。そうやって回っている同じ地球の中に人類がいる実感を詠んだ句。

・・・

「折り鶴」で知られる佐々木禎子さんの兄、雅弘さん(82)と原爆投下を命じたトルーマン元大統領の孫、クリフトントン・トルーマン・ダニエルさん(66)の句。わだかまりを越え、手を携えて活動されていることも紹介されていました。

☆赦しあう心の先に見る笑顔 

☆That we are close friends,
 Hibakusya and Truman,
 Is remarkable


18歳以下の子どもたちの10句も紹介されています。

☆僕の夢世界みんなで歌うこと(しふく/14歳)
☆8月を僕は知らずに息をする(りんな/16歳) 
☆空見れば悲しくなるほど快晴だ(あやの/17歳)

・・・

★右のページ第17面は全面、ある俳優さんのインタビュー。

なんとあの「青汁」CMでおなじみの「悪役商会」の八名信夫さん!
小さな図書館ともご縁があるのです。

実は、20年前の「町民集会」でお目にかかったことがありました。
https://hitokoto2020.hatenablog.com/entry/2003/03/09/000000


新聞を読んで、その日、すぐに図書館へ出かけて、
書庫に眠っていた『こんにちは 八名信夫です』を手にしました。

津幡町の皆さんへ 2003.3.9 八名信夫」のサイン入り。

岡山生まれで桃が好き、イカが大好き、甘いものに目がない八名さんの甘いものベスト(八位に金沢の森安の水羊羹)や野球選手だったこと、「あんたたちが来ると刺激が強すぎて更生中の者に悪影響を与える」と全国すべての刑務所でボランティア訪問を断られたり、本物のヤクザが応募してきたり、以前は、電車の中で子どもが怖そうにこっちを見ていると母親が「あんまり見ちゃダメ、悪いことばっかりしてるとあんな顔になるんですよ」と言われたこともあったとか。肩の凝らない、愉快なエピソード満載ですが、持論もきっちり展開します。

「人の不幸を喜び、いじめ、それを笑いのギャグとして放送する、程度の低い番組が多すぎる、くだらないテレビは見せるな」
日本銀行も大蔵省も政治家も証券会社も、世の中で、頭が良くてエリートで、国の大事なことを俺達のかわりに考えて、俺達国民の為に良いことをしてくれなければならない人達が、自分の本当の務めを忘れてしまっている」

***

そうそう、あの時、超スピードであらたに三冊が届いたのでした。

 

「八名さんの『こんにちは 八名信夫です』が3冊、届きました。先日の町民集会でお目にかかった「悪役商会」事務所の竹谷さんがお約束してくださったのです。カウンターに置いた途端、4冊とも貸し出されていきました。」(2003.3.12/『ひと言・人・こと』より)

 

県内の所蔵館は津幡町立図書館のみ。ただ、現在は一冊しかありません。
紛失?おそらくは…惜しいことですが、所蔵点検の際に除籍処分されたのかもしれませんね。

着流し姿でサングラス、左手にはタバコ、
本の表紙はさすが悪役、一見、凄みがありますが、愉快な本です。

***

今年87歳の八名さん、インタビューの中で、これまでに私財を投じて被災地支援をしてきたこと、元気づけるために映画も作ったと語っていらっしゃいます。熊本で撮った映画「駄菓子屋小春」では、八名さん演じる植木職人が戦争の恐ろしさを語る場面は、台本にはないアドリブだったそうです。


地震も怖いがもっと恐ろしいものがある。戦争だ。戦争はすべてのものを奪い去る。人の心まで消し去ってしまう魔の消しゴムだ。わしは岡山で空襲に遭って、おじは広島で原爆だ」


あの場面の撮影のとき、飛行機が上空を通過した。それで、なぜだかあのセリフが浮かんだ。戦争だけは絶対にやってはダメだ。…これを伝えていくのが俺らの義務であり、責任なんだ。戦争で領土を取り合いして何になるんだ。なんで話し合いができないんだろうか。政治がしっかりしなきゃいけない、鶴田浩二さんや若山富三郎さん、高倉健さん、みんな逝っちまったけど、俺はまだ生きている。これからの人生、まだやらなきゃいけないこともあるし…。

「笑顔と元気を届けたい」と執筆やボランティア活動を精力的に続けていらっしゃるという八名さん。

尻込みしたのですがどうぞどうぞと勧められ、長身の素敵な八名さんと並んだ20年前のツーショット写真、どこかにしまってあるのを思い出しました。

「こころの時代~翻訳者・坂東弘美」より

はだしのゲン』はわたしの遺書、
わたしが伝えたいことは、すべてあの中にこめました、と中沢啓治さん。

はだしのゲンヒロシマを忘れない』(中沢啓治/岩波ブックレット/2008年)では
ゲンはぼく自身、ぼくの目に焼きついている原爆の姿、
しつこく、しつこく、伝え続けたい。

戦争で、原爆で、人間がどういうふうになるかと徹底的に描きたかったが、
心外ながら、かなり表現を緩めて、極力残酷さを薄めて書かざるを得なかった。
子どもが「こわい」と言って泣く、夜トイレに行けなくなる。
あまりどぎついものを描かないでくれと
親からの抗議の手紙をもらってこんな手紙を書きました。
映画『はだしのゲンが見たヒロシマ』でも、このように語っていらっしゃいました。

 

…あなたのお子さんは立派なお子さんですね。あの被爆のシーンをヘラヘラ笑って読まれたら、作者としてはたまらない。こんなもんじゃないんだから。トイレに行くのをこわがるぐらいに感じてくれたことがありがたい。ほめてやってください。…

 

連載開始から50周年記念の今年、広島市教委が小学生の平和教材から削除しました。
これまでにも松江市教育委員会、それに先立って鳥取市立図書館も、子どもの精神にダメージを与えることを理由に閲覧制限をして問題となったことがありました。

 

今、24言語に翻訳されている『はだしのゲン
8月20日のETV「こころの時代~『はだしのゲン』の父~」は、中国語訳を手がけられた坂東弘美さんでした。
アナウンサーとして働いていたときに読んだ女子学生の詩に、強く心が動かされ、さらに、日中戦争での父親の過去を知ったことで、その後の生き方が大きく変わっていった坂東さん。

あたりさわりのない表向きの言葉はむなしくて、本音で話し合える場をつくりました。チェルノブイリにも出かけ「ミルクでも薬でもお金がほしいのでもない、私たちのことを忘れないでほしい、ただそれだけ」という現地の声を聴きました。

 

ゲンの父の生き方は、
国家の命ずるままに戦争に出征した自分の父親とは真逆に見えた。
なぜ、あんなに優しい父が残酷なことをしたのか。
自分は殺した人の命から生まれた命。無駄に使っちゃいけない。
私が受けたものは社会に返そう。
気をつけていないと時代に流されてしまう。
仕方がなかったではすまされない。
そういう時代だったからね、という言葉はもう言っちゃいけない。

1996年、単身、中国にも渡り、日本語講師としても暮らしました。
はだしのゲン』の翻訳を決意、7年かけて完成しました。


~・~私の夢(塩瀬信子)1959年8月15日~・~

それは私が受けたものを
社会に返すこと
社会のために何らかのことをすること

私という人間が
長い歴史の一瞬間
生きた意味のあるように
   
『生命ある日に 女子学生の日記』(塩瀬信子/大和書房/1962)より

☆県内では、北陸学院大学図書館にあります

★今日8月26日(土)13:00~「こころの時代」再放送です

旧津幡町立図書館の記録「ひと言・人・こと」はこちらです。