小さな図書館のものがたり

旧津幡町立図書館の2005年以前の記録です

「センス・オブ・ワンダーの図書館」と呼ばれていた旧津幡町立図書館。2001-2005年4月30日までの4年間、そこから発信していた日々の記録「ひと言・人・こと」を別サイトで再現。そこでは言い足りなかった記憶の記録が「小さな図書館のものがたり」です。経緯は初回記事にあります。

鶴彬~一叩人~澤地久枝さんへとバトンは渡されて

鶴彬のこと、澤地久枝さんのこと、どうしても伝えたくて、
今日、の書き出しが、昨日、一昨日、になり…
とうとう四日たって、ようやくの報告です。

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9月3日(日)、隣町のかほく市高松町で開催された佐高信さんの講演を聴きました。
会場の高松産業文化センター大ホールは、二百人を超えるという聴衆、県内各地、県外から参加された方もいらっしゃるとか。ぐるり見渡すともう若くはない方たちがほとんどかな~。でも、その熱気は驚くばかりでした。

 

「鶴彬/つるあきら」、本名・喜多一二(きた かつじ/1909~1938))
お隣のかほく市高松町に生まれ、短い生涯を終えた川柳作家。
「没後85年」の記念講演でした。

 

演題は《時代を撃つ川柳人 鶴彬》

 

講演会レジュメは作らないのですが、今回はお世話くださる方々に敬意を表して、
めったにないことですが、と佐高さんは会場を沸かせました。
(参加されなかった方の参考に~こんなレジュメです)

1 差別、蔑称から逃げない...「川柳やのくせに」とか裏日本
2 上御一人 剣花坊や司馬遼太郎との違い
3 鶴ファンの大道寺将司
4 川上三太郎の戦争責任
5 軍隊での抵抗
6 軍隊は国民を守らない
7 蟻食いを嚙み殺したまま死んだ蟻

レジュメからはみだして、当然ながら時事問題、政界のウラ話、与党、準与党議員らが面白おかしく登場します。が、対する人物像として、久野収松下竜一、松元ヒロ、城山三郎松村謙三藤沢周平、、、さんたち。

人権と特権、天皇制国家のこと、文春でも尻込みするいう“司馬遼太郎タブー”に踏み込んでの興味深いお話もありました。


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この3月に出版された『反戦川柳人 鶴彬の獄死』(佐高信/集英社新書)は既に3刷りとか。

「〈万歳とあげて行った手を大陸において来た〉〈手と足をもいだ丸太にしてかへし〉。昭和初期、軍国主義に走る政府を批判する激烈な川柳を発表し、官憲に捕らえられて獄死した川柳人・鶴彬、享年29。「川柳界の小林多喜二」と称される鶴彬とは。再び戦争の空気が漂い始めた今の日本に、反骨の評論家・佐高信が、突きつける!」(カバーの紹介文より)

前々回の古典の読書会で紹介され、順に回し読みしている本です。

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これまでに幾冊もの「鶴彬」が出版されています。

田辺聖子著『川柳でんでん太鼓
坂本幸四郎著『雪と炎のうた-田中五呂八と鶴彬』
半藤一利著「あの戦争と日本人』
深井一郎著『反戦 川柳作家 鶴彬』… … …etc.

年三回のペースで発行されている『鶴彬通信~はばたき』(顕彰する会)は、第43号を数えます。みなさんの力で、絵本『石川県の生んだ偉大な川柳作家~鶴彬の生涯』(文・絵/寺内徹乗/2017)や、生誕百年の記念映画「鶴彬 こころの軌跡」(監督/神山征二郎)も生まれ、金沢市民芸術村で演劇「手と足をもいだ丸太にしてかへし―鶴彬の生涯―」も上演されました。


会のみなさんの長年のご苦労を思います。
細川律子さんも長らく幹事をつとめていらっしゃいました。

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1997年だったか、翌年だったか~、小さな図書館が開館して一、二年(記憶がおぼろげです。当時の手帳を探しているところです)高松町立図書館の架谷館長さんから、澤地久枝さんが急にこちらに見えることになったのでぜひ話を聴きにきてほしいとの電話がありました。詳しい事情はよくわかりませんでしたが、よろこんで駆けつけました。

図書館の一室、そう多くはない人数だったように思います。
初めて知る、鶴彬と一叩人(いっこうじん)。
全集復刻への澤地さんの熱い想い、強い決意を感じた日でした。


その後、1998年、鶴彬の命日の9月14日に、限定500部の(増補改訂復刻版)『鶴彬全集』(著者/鶴彬、編者/一叩人、復刻責任者/澤地久枝)が発行されました。一叩人編『鶴彬全集』(1977年9月14日・たいまつ社刊・絶版)を原本とする492ページに及ぶ労作です。(1/500冊が津幡の図書館にもあります)

澤地さんによって再版されて半年後の4月9日、一叩人は87歳で世を去りました。
終わりの~《復刻にあたって》~で、澤地さんは以下のように書いていらっしゃいます。


「鶴彬の生きた時間は短く、自由に文学活動のできた時間はもっと短い。そして時間だけが問題なのではなく、思うままに作品を発表できる時代ではなかった。彼はその生前、みずから一冊の句集もまとめる機会のないまま死んだ。作品をのこす権利を奪われた人生といってもいい。

評論は一編の生原稿さえ残っていない。特高警察の押収と処分のほか、所持していた人たちによる焼却がおこなわれている。それは、彼の仕事が完全な形であとにのこされることを不可能にした。

わたしは鶴彬から一叩人が受け継いだ意志と情熱とを、つぎなる受け手にひきつぐ中つぎ役であると思っている。今回の復刻出版は遅すぎたほどであり、しかもなお完本とは言い切れない。だが、これが現在、わたしにできたぎりぎりの到達点であることをわたしはよく知っている。」

そして、

「答えのない長い時間、すべてをゆだねて黙って見守ってくれた一叩人その人への感謝。盛岡市の喜多孝雄のご遺族。鶴彬の二人の妹さん。 
郷里石川県高松町から示された好意。喜多喜太郎の孫や縁続きのひとたち、鶴彬の級友、知人、町立図書館長架谷俊治氏など多くの人たちの好意にささえられてここまで来た。一叩人から渡されたバトンをつぎなるにない手に渡すべく、この五百冊が役立つことを祈りたい。…」と。


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・静な夜口笛の消え去る淋しさ

・燐寸(マッチ)の棒の燃焼にも似た生命(いのち)

・皺に宿る淋しい影よ母よ


大正13年10月25日『北国柳壇』に「喜多 一児」の名で初登場した鶴彬。

わずか15歳の句です。

(ありがたいことに、復刻版を底本にして全川柳が青空文庫に掲載されています)

旧津幡町立図書館の記録「ひと言・人・こと」はこちらです。