小さな図書館のものがたり

旧津幡町立図書館の2005年以前の記録です

「センス・オブ・ワンダーの図書館」と呼ばれていた旧津幡町立図書館。2001-2005年4月30日までの4年間、そこから発信していた日々の記録「ひと言・人・こと」を別サイトで再現。そこでは言い足りなかった記憶の記録が「小さな図書館のものがたり」です。経緯は初回記事にあります。

『主よ、いつまでですかー無実の死刑囚・袴田巌獄中書簡』①

「…私も元気でおります。私のことで親類
縁者にまで心配かけてすみません。こがね味噌
の事件には真実関係ありません。
私は白です。私は今落着いて裁判をまってお
ります。
私は暖部屋にはいていますので現在なんの…」(記載ママ)

11月2日の中日新聞の特報記事「書簡でたどる 袴田さんの心」
にあった袴田巌さん自筆の家族への手紙(1967年1月)です。

6行の一文字一文字に
裁判で無実が晴らされることを信じ
自分よりも家族を思いやる袴田さんの心情が
溢れ出ていました。

***

袴田さんが獄中で書いたその書簡が
袴田巌さんを救う会》の手で出版されていることを
新聞で初めて知りました。


『主よ、いつまでですかー無実の死刑囚・袴田巌獄中書簡』
袴田巌//1992年.8.15/新教出版社


県内の公共図書館は未所蔵でしたが、幸いにも北陸学院大学ヘッセル記念図書館に所蔵されていることを知りました。ありがたいことに、相互貸借本として昨日届きました。
昨夜は就寝前に、推薦のことば、あとがき部分に目を通しました。今朝の暗いうちに、夫はジュニアのテニス大会で能登まで出かけてしまったので、6時から一心に読みました。2週間後の24日が返却期限です。

***

再審請求がなされて既に十年余の1992年1月2日から三日間、「袴田事件」の事実を再度学ぶために会のメンバーが、東京で合宿の学習会を行ない、膨大な裁判記録、関係資料などを手分けして読み解く作業をされたのでした。

「…その中に、袴田さんが、生きている証として獄中で書いた日記や家族や知人に宛てて出した手紙も含まれていました。…身に覚えのない罪で囚われの身となりながらも、決して絶望や自暴自棄に陥ることなく、真実が白日の下にさらされる日を遥かに待ち望みつつ、一日一日を大切にし、ひたむきに生きる袴田巌さんの姿に接し、深く感動させられました。そして、ぜひ多くの人に読んで頂きたいと、出版することを思い立ちました。…袴田巌さんが毎日書き続けた日記、書簡、ハガキはおよそ五千ページにも及びます。素人の私たちが、この中から限られた枚数に選択しましたので、不備な点が多々あることと思います。また初期のもの(1966年、1967年)には日付が無いものが多く、必ずしも時間的に早いもの順ではありません。表紙の装丁は武田敦史、原稿用紙への清書は左記の編集者の他に、坂詰美代子、鈴木武秀、西尾正一、平野雄三、松田由美が担当しました。…(「編集後記」より抜粋)

1992年5月27日 無実の死刑囚・元プロボクサー 袴田巌さんを救う会

稲葉政興・後藤挙治・五月女秀子・星野博之・星野直子・星野由希・村岡豊・門間幸枝(ご努力に敬意を表しお名前もそのまま列記させていただきました)


~~目次~~

Ⅰ真実をもとめて
1966年、1967年、1968年

Ⅱ無実の叫び
1969年、1970年、1973年、1974年、1975年

Ⅲ死に直面して
1976年、1979年、1980年

Ⅳ獄中からの祈り
1981年、1982年、1983年、1984年、1985年、1986年、1989年

***

「お母さんへ。
先日、久し振りに、お母さんと息子の元気な顔を拝見いたしまして、息子も幸せそうで安心いたしました。…(略)」

 

「お母さんへ。
皆様、お変わりございませんか。僕は元気で暮らしております。…(中略)…もちろん、私はこの事件となんの関係もないのだから、お母さんは自信を持って堂々と来てください。さようなら。」

 

「お母さんへ。
お母さんお元気ですか。前の日、下着、靴下、丹前など有難う。昨日、兄が面会に来てくれました。そのとき立会の先生が、「君の兄さんか、ようにているな」と感心していました。いつもは暗い鉄格子の中が一度に明るくなりました。兄の顔をみたからです。有難うございました。姉のC子に急ぎ会いたいとおもいます。
息子は元気ですか?息子や、婆々をこまらせないように。では皆様お元気でさようなら。」

 

「お母さんへ。
昨日、姉が面会に来てくれました。
有難うございます。姉の話の様子だと、皆さんは、今は立ち直って落ち着いて仕事に励んでいるとのこと、安心しました。
先日、息子を動物園につれて行ったとのこと、有難うございました。息子も、めずらしい物を見て眼を光らせたと思います。私の事でF子や、D男は学校に行って嫌なことはありませんか。心配です。
 ここ、二、三日めっきり冷え込みますね。では、皆様お身体に気をつけて。さようなら。」

 

「お母さんへ。
昨日の出廷はお母さんも雨で大変でした。私も今年は風邪一つひかず元気でおります。今朝は日本平に雪が積り美しい。お母さん元気を出して弾圧に負けるな。正義に頑張って下さい。さようなら。」

***

1966年の手紙です。
1968年に静岡地裁が死刑宣告。
その2ヵ月後には最愛のお母さんが亡くなったのでした。

逮捕後の袴田さんは、一度も声を出して心から笑えていないはず。
叫ぶこと、笑うことができず、書くことしかできなかった。
今は重い拘禁症状があるけれど、袴田さんのその思いが書簡に詰まっているのだと
編集に携わった門間幸枝さん(救う会副代表)。

その後の48年に及ぶ不条理な人生が明らかなだけに、
「お母さんへ」から始まる一連の手紙がいっそう胸に迫ります。

旧津幡町立図書館の記録「ひと言・人・こと」はこちらです。